無味乾燥な感想。

何でも書いてます。書籍、映画、歴史、哲学、頭に浮かんでは消えてくもの。あるいは。

今日の本 今日のコトバ

 今日はコチラ

やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。 (9) (ガガガ文庫)

やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。 (9) (ガガガ文庫)

  • 作者:渡 航
  • 出版社/メーカー: 小学館
  • 発売日: 2014/04/18
  • メディア: 文庫

 

このシリーズ大好きで何回も読み直してます。

各巻ごとに心を打つ言葉があるのですが、今日は9巻の平塚先生の言葉が

浮かんだので、紹介します。

 

人間、存在するだけで無自覚に誰かを傷つけるものさ。生きていても、死んでいても、ずっと傷つける…けれど、どうでもいい相手なら傷つけたことすら気づかない。必要なのは自覚だ。大切に思うからこそ、傷つけてしまったと感じるんだ 

 

誰かを大切に思うということは、その人を傷つける覚悟をすることだよ

 

 このコトバは、人間関係に悩んだり、迷ったりしたときに思い出すんです。

思い出して、自身の言動とかを振り返ったりします。

 

大切に思うからこそ、傷つけるのが怖い。

だからこそ、言いたいことを言えずに、本音でぶつかれない。

私もそうやって、かなり悩みました。

 

でも、人は人を傷つけないなんてことはない。

何かをしたら傷つけてしまうかもしれなくて、

何かをしなかったらその事が傷つけてしまうかもしれない。

 

だから、その人を傷つける覚悟を持って、思いを伝える必要がある。

それで伝わらないかもしれないけど、伝える。傷つくかもしれないけど、向き合う。

 

この言葉に、私はかなり救われました。

 

 

他にも紹介したい言葉はありますが、、今日のところはここまで。

また取り上げます。

 

パパとママが仲良しなことって、子供にとっても大事だと思う。

雑記です。
最近よく思うことについて。


もうすぐ人の親になるからなのか、
子どもが健やかに育つ、ベスト(あるいはベター)な環境って、
いったい何なんだろう、ってよく考えるんです。


これって沢山の回答がありますよね。
それこそ、人の数だけ答えがある。
教育論は、誰しもが持っている論ですもんね。


このテーマにおいて、私が最近よく思うこと。
それが、【パパとママが仲良しな環境】なんですね。


【父親必見】「私はこれを見てお父さんを大事にするようにした」「これで父親と仲良く出来ている」娘視点の意見が続々と集まって心に刺さる - Togetter


そもそも、なんで子どもは親を嫌っていくのでしょうか。


自分の言いたいことを理解してくれないから。
理由もなしに、禁止事項ばっかり提示してくるから。
いちいちうるさいから。


それはもう、色々あるとは思うのですが、
私が思う、大きな要因って、【夫婦仲】な気がするんですよね。


ママがパパを大事にしていない。
パパもママを大事にしていない。

要は、相互に尊重し合ってないんですよね。


結構子どもって、家庭内のバランス見てます。
かなり、気遣わせちゃうと思うんですよ。

どちらも大好きな親なのに、どっちの肩持てばいいんだって具合に。


やっぱり、パパママがお互いの存在を尊重し合っているからこそ、
子どもは健やかに育つんだと思うんですね。


お互いに尊敬し、感謝の気持ちを伝え合って、助け合う。
改めて、奥さん大事にしようって思ったので、雑記です。


先の記事にもあった通り、仲良しの度合い、発揮の仕方にもよります。
プラトン先生じゃないですが、何事も『中庸』が大事かと。



今日はここまで。
それでは。

今日の本 今日のコトバ

今日から1日1冊、

その中から直感的に響いてきたコトバを、

自分の血肉になっている本や言葉たちを、

紹介していきたいと思います。

 

自分が紹介する本、言葉に少しでも共感してくれる人がいたなら、

それはとても嬉しいことです。

 

 

記念すべき1回目は、『方法序説

方法序説 (岩波文庫)

方法序説 (岩波文庫)

 

見どころがありすぎるので、今回は部分だけ簡単に。

また取り上げます。

 

金やダイヤモンドだと思っているものも 、ただの銅やガラスにすぎないかもしれない 。自分にかんすることでは 、どれほど考え違いをしやすいか 、友人の判断が 、わたしたちに好意的であるとき 、どれほど疑わしいものになりかねないか 、わたしも知っている。

 

今日はこの言葉が特に沁みました。

思い込みって怖いですね。。痛感です。

ポジティブ思考も重要ですが、懐疑的思考も一定数持つ必要ありますね。内省。

 

きわめてゆっくりと歩む人でも 、つねにまっすぐな道をたどるなら 、走りながらも道をそれてしまう人よりも 、はるかに前進することができる 。

 

このコトバ、なんだか勇気を貰えるんですよね。

なんというか、自分よりも出来る人って沢山いて、みんなスピード速いから、

すごく焦ってしまうことが多いんです。

 

でも、焦る必要はなくて、ゆっくりでもつねにまっすぐな道をたどっていくのも、

いいんだなって、肯定された気分になる。頑張ろう。

 

自分の行動において 、できるかぎり確固として果断であり 、どんなに疑わしい意見でも 、一度それに決めた以上は 、きわめて確実な意見であるときに劣らず 、一貫して従うことだった 。この点でわたしは 、どこかの森のなかで道に迷った旅人にならった 。旅人は 、あちらに行き 、こちらに行きして 、ぐるぐるさまよい歩いてはならないし 、まして一カ所にとどまっていてもいけない 。いつも同じ方角に向かってできるだけまっすぐ歩き 、たとえ最初おそらくただ偶然にこの方角を選ぼうと決めたとしても 、たいした理由もなしにその方向を変えてはならない 。というのは 、このやり方で 、望むところへ正確には行き着かなくても 、とにかく最後にはどこかへ行き着くだろうし 、そのほうが森の中にいるよりはたぶんましだろうからだ 。

 

言ってることはシンプル。

決めたら迷うな、一貫して従え。ってだけ。

でもこれ、めちゃ難しいと思うんですよね。

 

ここでいう、さまよい歩いている旅人に、自分はよくなってるなあと思うんです。

現代社会で生きる、だいたいの人々は、さまよい歩く旅人なんじゃないかと。

 

なんだか大学受験に似てると思ったんです。

大学受験って、他の受験生が使ってる参考書とかテキストに目移りして、

手出したりしちゃったりするでしょ。

自分の参考書は、全く完璧には程遠い習熟度なのに。

 

自分がこれがいいんだ、と決めたことは、最後までやってみる。

偶々この道を選んだんだとしても、やる。

そうしないと、この道が正しかったのか、間違っていたのかすら分からない。

だから、最後までやる。いずれはどこかに辿り着くんだから。

 

いやあ、デカルトは本当に良いこと言いますね。

胸に刻みます。

 

 

他にも紹介したいコトバは沢山ですが。

 

今日はここまで。

それでは、また明日。

 

何も知らない。分からない。というスタンス

昔々のさらに昔、ギリシアソクラテスという哲学者がいた。

彼は、当時のソフィスト(弁論家。正しいかどうかも分からないのに、ある事ない事それっぽく話してるひと。 それが真実であるかは関係がない。説得できれば勝ち。)たちがあたかも正しそうに話し、民衆が疑うこともなく信じ込んでいた考えや物事に対して、純粋に疑問を投げ掛けた人物。

 

私はソクラテスという人物が好きだ。

権威やみんなが信じているから正しいとされた事に流されず、疑問を持ち続け、それを投げ掛け続けた、その生き様にしびれる。

 

「正義」とはこういうものだ。「愛」とはこういうものだ。

「美」とはこういうものだ。「政治」とはかくあるべきだ。

様々な観念、べき論に向き合った。問答法を用いて。

そもそも、「愛」「正義」「美」「悪」、、、って何なんでしょうかね、みたいな感じで。とっても軽い風に問う感じで。

 

今の時代こそ、ソクラテスのスタンスが必要なのだと思う。

無知の知である。

分からないと自分で分かっている、これが大切なんだ、と。

 

私たちが生きている時代は情報が多すぎる。氾濫を起こしていて、飲み込まれそうだし、もうすでに飲み込まれているのかもしれない、気付いていないだけで。

 

だからこそ、分からない事は分からないと認める勇気を持とう。

知ったかぶりをしないで。分からない事は恥ずかしいことじゃない。

だって、この世界は分からない事だらけで、だからこそ面白いのだし。

 

分からなかったら、学べばいい、調べればいい。

分かった気になっていたのでは、そこで打ち止めだ。

分からないと認めた分だけ、その人の伸びしろになると思う。

 

分からないことは分からない。

でもそれは当たり前のことなんだ。

それを認識したところから、始まりだと思う。

 

この世界は不思議で分からない事だらけ。

分からない事を分かるようにしていく事も人生。

とても楽しい道程。

 

ではまた。

 

 

親との関係と恋人に求める関係

 

この前、友人から聞いた話に興味深いものがあった。

 

人が恋愛や結婚でパートナーを選ぶ傾向には、

自身の親との関係が密接に関係しているというもの。

恋愛で求める傾向は、
自身の親との関係で構築することができなかった部分を
補完するように求めるという。

 

一見そう見えなくとも、行動原理や選択肢そのものが狭められ、
自由そうに見えて無意識下に管理されていた子供時代を持つものは、
パートナーに、縛られることのない自由さを求める。

自分だけの不可侵の領域を欲する。これが無いと非常にストレスなのだ。

一人っ子なんかには多い傾向かもしれない。

 

この例は、他でもない私自身の例なのだが、

やっぱり私は意識的にも、無意識的にも、自由さを求めているようだ。

 

人間関係は難しい。コミュニケーションは生き物だから、刻一刻と変化する。

これまで正しいとされていたものが、全く通用しないものになっていたりもする。

恋愛関係も一筋縄にはいかない。

 

でも、自分がパートナーに求めるものや恋人にしたい人の理想像なんかを、

ぼやっとでもいいので考えておくと、幾分かは楽になるかもしれない。

それに加えて、なぜそのように求めるのか、背景なんかも理解しておけたのなら、

きっと気持ちが軽くなるだろう。

 

そんな感じで、皆さんの気持ちが少しでも軽くなるような情報になれたのなら、

とても嬉しいものですね。

 

ではまた。